農山漁村の民衆精神を考える

levin2020
2018年9月27日

高浜 菜奈子
2016年2月8日
《2月6日(土)講座のまとめ》
哲学特講②農山漁村の民衆精神を考える〜農村共同体とその伝統的信仰心〜
宗教、信仰という言葉は、明治以前はなく、ほぼ同義のものが存在したとすれば、もっと土着的な自分たちの社会に対する思いだった。伝統的な民衆思想では、「結びあう世界」を土台としている。全てのものが結びあう中から、私や貴方、木や海やミミズが、その形を持って出現しているだけであり、つまり私や貴方、木や海やミミズは同じものである。Nature(自然)やcommunity(共同体)は、明治以降の外来語で、もともと日本には、人間と自然とをわける感覚がなかった。西洋的な共同体は人間界を指すが、日本的な価値観では自然界も人間界も一体とみなしていた。
ただ、人間は我欲と切り離せないので、結びあう世界が見えなくなる=自然(ジネン、オノズカラのままに)になれない。日本の自然信仰(山岳信仰など)とは、結びあう世界が姿を現したもの(権現思想)としての自然に、真理を求めることである。仏教は、他の宗教と違い、伝播する過程でその土地の信仰と融合しながら、変化する。日本に仏教が入ってきて、もともとあった民衆精神が言葉を得た、と考える方が正しい。日本の仏教の特徴的なものとして、唯識があるが、これは、「結びあう世界・意識=阿頼耶識」よりも「なんか分かる、第六感=末那織」、また、それよりも表層的なところに、「眼織・鼻織・耳織など=六識」があるので、根本・本質は捉えることができないということである。「諒解」とは、突き詰めずに良いという感覚を前提に、非合理的事象を受け入れることである。戦後、お国のために頑張った人たちの中で自分のために生きないと損をする、という国民意識が醸成され、そこに高度経済成長が訪れたことで、個人主義で生きていける社会となった。公の概念も国と混同され、消された。しかし、徐々に戦後のトラウマのない人々が増えてきたことで、少しずつ変わり始めている。
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結びあう世界から(突起のように)出ている人間も自然も同質なものであるとする価値観と、本質は捉えられないというところから来る、分からないことがあっても良いとする価値観は、パンドラの箱の希望だと思います。これを基軸にどう社会をデザインし直すか、一年間の講座を通してみなさんと考えていきます。
みなさま、一言感想お願い致します!(一言でなくとも構いません!)

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